気刊くろみつタイムス

主にゲームプレイ日記。過去記事一気読みは「目次」からどうぞ! ※他ブログからのインポート引っ越し時に改行崩れ&画像消滅が発生しています。

鉄血のオルフェンズは名作か、否か

いえね、先日ちょっとした暴論を見かけ、長考する機会があったので、文章化しておこうかと思いまして……

どうしても引っ掛かったのは、
オルガの死を笑いのネタとして消化するのはどうよ?
という点…… ではなく、
オルガの死をネタにされて怒り出す人間がいる事が理解できない、という趣旨の発言。
自分もオルガネタはあまり好きではないけれど、例えば……
どん底オルガ」
のようなネタ動画が出てきても、それを好む人達がいる事に食って掛かったりはしない。
どんな物も、好きな人がいれば嫌いな人もいる。当然の事。
辛すぎる物語展開を笑い飛ばす意図のネタ化ならば、むしろ良い物でもあるだろう。
しかし、好きな作品を揶揄されて怒る人が出てくるのは当たり前にすぎる話。
まして、それが「作品が悪いんだから揶揄しても構わない」という論調であれば、反発は当然に過ぎる。
その、件のツイッター上の「なんで怒るの?」派の意見をざっと眺めてみると、
終盤(特にオルガ暗殺)で、死に至る描写が雑すぎる。
というものが大半だった。
無警戒に護衛もつけず市街に出て殺されるのはアホすぎるだろ!
という意見が、そのツリーでは多く見られた。
確かにそうだろう。
過去に仲間を暗殺されているのに、脇が甘すぎるにも程があるだろう。
だがしかし、彼ら鉄華団の面々は決して賢くない。
戦闘での命のやり取りに長けている割に、それ以外の所では常識に欠けている。
我々視聴者の視点で見て、「警戒して当然」と思っても、劇中の彼らにとってそうであるかどうかは別問題だ。
では、なぜ戦場で有能だった彼らがああも簡単に撃たれっぱなしで隠れる事すらしなかったのか?
追い込まれ、辿り着く事を諦め、挫折した状況下で、適切な行動を取れなかった、とするのはどうか。
まだ幼い仲間を庇うためなら、今ここで死ぬのも悪くないと思ったのかもしれない。
単に、咄嗟の事で適切な行動を取れなかっただけかも。
単に、作劇の都合で死なせる必要があっただけかもしれない。
ツイッターで指摘されていたような問題点に、スタッフが気付いていなかっただけかもしれない。
そのシーンを肯定するなら、理由はいくらでも考えられる。
そのシーンを否定するなら、理由はいくらでも考えられる。
いつも、島本和彦の漫画のワンシーンを思い出す。
最初から全否定で入って来る近所のおばさんを前に、どんな言葉も無駄、その固まった思考は変えがたい、というシーン。
これはダメ、という前提で考えると、ダメな理由はいくらでも出てくるだろう。
逆もまた然り、だ。
否定派と肯定派が議論を尽くしても、片方の意見が変わる事はまず無い。
オルガの死のシーンは明らかに賛否の分かれる場面だろう。
否定派の方が多くなっても不思議ではない。
だが、だからと言って肯定派を理解不能と全否定するのはよろしくない。
否定派に対する肯定派の悪感情を否定するというのは、更に良くない。
互いに嫌い、否定し、関与しないならまだいい。
嫌いだと叫ぶ行為のために、好きだと言う人間に対してツバを吐きかけに行く行為はあまりにも酷い。
なまじ否定派の数が少なくない状況では、それに追従する人間も多くなる。
最早、作品の良し悪しの話ではない。
マナーとしてどうか、人としてどうか、という話だ。
そもそも、肯定と否定は当価値ではない。
自分の好きな作品を攻撃されれば不快になるものだが、
自分の嫌いな作品を好きである人間がいる事で不快なるのは、ちょっと共感できない。
「こんなに2期でグダグダにされたのに、肯定してる奴らの気が知れない」というのは、ダメだ。
グダグダにされたというのはその人の主観でしかない。
「あんな風に2期でグダグダになってしまったから、残念でならない」
これならまだ分かる。
展開が口に合わなかったという自分の主観である事を宣言しているのだから。
「1期は良かったけど、俺はちょっと2期は……」
とかなら、尚良い。
万人にとって2期がグダグダだったとは限らないのだから。
好きも嫌いも人それぞれで、名作を駄作と断じようが、駄作を名作と持ち上げようが、別に構いはしない。
ただ、わざわざトゲを立てて人を刺しに行くより、互いに刺激しない適切な距離を取るべきだと言いたいだけだ。
主語を曖昧にしたり、断言してしまったり、無駄にトゲを立てる事がよろしくない。
否定派・肯定派の二元論にするのがそもそも良くない。
どんな時も「俺はこうだと思う」と主観を明確にし、主語を大きくしない事がSNS時代には必要なのではないだろうか。
で……
そもそも、本当に2期はグダグダだったのか?

私が1期序盤を見て感じたのは、全滅の予感だった。
若すぎる少年兵達が世界の軍事・政治を相手に張り合っていくには余りに危うすぎる姿が描かれていた。
初戦で破れたクランクの同情を切って捨て、無感情に殺したミカの姿に、平穏な終幕は無いだろうな、と感じていた。
だから、終盤の展開に衝撃は受けたが、驚きは無かった。
『これは海外ドラマの文法で作られているのではないか』
という論を見た。
予定調和的なアニメの作風では無い。小ネタも差し挟まれていた。
なるほど、と納得した。
ガンダムでは変革側が敗北する』
という論を見た。
テロリストが軍事革命に立ち向かう形となったWや、体制の消えたX等、変化球はあるが……
そうだな、と共感した。
鉄華団が革命を成し遂げるハッピーエンドの線は薄く見え、全滅エンドを予感していた者も少なくなかっただろう。
問題は、鉄血を「滅びの美学の物語」であると感じた多くの視聴者の期待した展開にならなかった事だ。
私は、鉄血の作品の持つ趣旨は滅びの美学ではなく、
ご都合主義の破壊と、現実の冷徹さを描く事に特化されていたのではないかと感じていた。
どう考えても歪んだ社会の被害者である少年少女達。
そこに、善意や打算で救いの手を伸ばそうとする者達が現れ、歪んだ社会を正そうとする。
悪い大人達の策謀を打ち破り、社会を正して終わるのが王道であろう。
例え滅びたとしても、悪に対して一矢報いて終わるのが、期待されていた展開だっただろう。
だが、そうはならなかった。
最後に報いた一矢はあまりに小さく、しかも鉄華団の手による物ではなかった。
死と敗北の代償が、善意の政治家一名を送り出し、法改正を成立させるに留まった事は、あまりに小さい。
あれで社会が変革されるとはとても思えない。
だがしかし……
大切な人々はあっさりと殺され、
絶対に命中させなければならない一撃は狙いを外し、
作品の華たる機動兵器は無慈悲な質量砲弾に敗北し、
皆が従うと定められた勇者の証に従う者は余りに少なく、
復活した伝説の機体は人の執念と最新技術によって凌駕され、
ついには主役の2人も大事を成す事なく死を迎えてしまう。
ここまで、作品の華をへし折り続けたのだから、それはもう意図してやっている「作風」に他ならない。
そりゃ、好まれはしないだろう。失望もされるだろう。
しかし、それが「グダグダだった」かどうかとなると、話は別だ。
私には、終始一貫して冷徹だった、と見える。
聞けば、本来はもっと酷い全滅エンドが予定されていたと言う。
個々の描写の良し悪し&好き嫌いはさておき、なるべくして2期がああなったのであれば、それは「グダグダ」と呼ぶべき物ではないだろう。
無理を重ねて膨れ上がった鉄華団が脆くも崩れ去る様に、その描写で納得が行くか、行かないか……
そういう、好き嫌いの問題だろう。
もっと暴れて、爪痕を残してから散って欲しかった。
それは皆が抱える想いだろう。
なのに、途中で戦線離脱を選び、あの結末に至った。
それを私は英断だと思うし、稀有な作品として完結したと見る。
どうしてこうなったんだ…… 辛い…… という感情を抱えながらも……
だが、こうであるのが鉄血という作品か!と、強烈な余韻と後味を残して行った作品だった。
少なくとも、私にとってはそういう作品だった。
からして、悲しみの上で笑いに転化する愛があるのなら、オルガネタも別に全然いいじゃない、となる。
が、しかし、そうでない場合も散見されるのが残念でならない。
ニコニコ大辞典にあるように、

<引用>
このようなネタ扱いは一般的なファンは不快に思う人が少なくないので、場の空気を守って使用しましょう。
ヘイト煽り的、他作品を巻き込むアンチ的な使用は厳禁です。

と言うのが結論となる。

ここまで書いておいて何だけれども、そこまで強い思い入れのある作品か、と言われると、そこまででもない。
しかし、鉄血に限らず、
作品の良い所を見ず、叩きネタとして定着させようとする
行為には以前から不快感を強めており、
一度スッキリさせておきたかったので、このような長文を垂れ流す事となってしまいました。
描写が足りないなら想像で補うのがオタクって生き物だろう!?
だから、オルガもフミタンも遺体の処置が描かれていない以上、サイボーグ化して劇場版で復活するかもしんねぇんだよ!!
だよ!!!(必死)